赤岳(残雪期)

この数ヶ月、冬山へ登るための道具を選んでいました。靴やウエア、ピッケルやクランポンなどを、細かいものまで1つひとつ吟味しました。ぼくは今年で38歳になりますが、たぶん、はじめてではないでしょうか。何か物を選びながら、「生き抜くためには?」と問い続けたのは。

山では生命(いのち)がむき出しになります。春夏シーズン中の低山でも条件が悪ければ遭難しますし、まして冬山は、自然と一体となって暮らす野生の動植物でさえ、生きることを簡単に断ち切られるほどの環境です。そんな厳しい場所へと独りきりで足を踏み入れるため、ぼくは自分の生死を目の前にぶらさげながら、「生きる」について考えました。

生まれてこの方、ぼくは自身の身体に大きな問題を抱えたことがありません。手足は動き、目や耳を含めた五感にだってなんの支障もありません。だから、翌朝に目が覚めることを確信しつつ安心して眠りにつけるし、朝ご飯を食べながら晩の食事の心配だってできます。山と向き合うようになるまでのぼくは、自分の「生きる」が続いていくことに、微塵の疑いも持たなかったわけです。なんという傲慢、そして、なんという幸せでしょう。自らの身体を、心を、生命(いのち)の営みを、ただただ「あたり前」として捉えていただなんて。

八ヶ岳の主峰、赤岳に向かうベースキャンプの行者小屋で、ぼくは道具の再確認をしました。ジャケットのジッパーを上げ、シューズの紐を結びなおし、クランポンを装着し、ピッケルをしっかりと握ります。実際に使ってみると、ピッケルやクランポンがどうしてこういった形状になったのか理解できます。無駄なものをそぎ落とし、使ったときにこそ輝きが増す「用の美」。その美しさは絶対的な安心感を与えてくれます。

降り積もった雪で夏よりも斜度のきつい文三郎尾根にクランポンを蹴り込みながら、ぼくは、1歩、また1歩と登りました。仮に足を踏み誤ろうものなら、谷底へと一気に数百メートル滑落します。ピッケルを雪にさし、片方の足を安定させ、次の足場を探し、もう片方の足を前に動かす。その動作の1回1回に、ぼくの今を込めました。あたり前なんかじゃない、この瞬間を満たす奇跡としての「生きる」を込めました。

登りはじめてから2時間弱、ぼくは赤岳山頂に立っていました。北アルプス、南アルプス、中央アルプス、富士山。見渡せば、雪をかぶった真っ白な峰々が、空に向かって微かなカーブを描いています。目を閉じてイメージしました。丸い地球に浮かぶ大陸と、そこに広がる空をつんざくようにそびえる頂の数々を。ぼくは彼女達に会いたいと、ぼくの「生きる」を届けにいきたいと、震えるように思いました。

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